
CAE Technical Library 橘サイバー研究室 - CAE技術情報ライブラリ
Vol.40ディートリッヒ(Marlene Dietrich)とリリー・マルレーン(Lily Marlene)
2017年4月21日
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ついでといってはなんだが、
1970年に開催されたこの大阪万博は、大阪が世界の中で輝いた年でもあった。(ひょっとしてこれが最初にして最後?かもしれない。大阪人として、そうでないことを切に願う。)当時の日本は希望にあふれていた。万博協会の会長は経団連会長を12年の長きに亘り務めた(1956〜1968)石坂泰三であった。又、万博の全体計画には丹下健三、菊竹請訓、岡本太郎らが中心となっていた。
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[写真-2] お祭り広場の大屋根の一部。当時はもっと上に揚げられており、屋根の間の空間部が展示スペースで、人が歩けるようになっていた。
お祭り広場を覆う大屋根は、巨大な立体トラスによるスペースフレームとして、1964年の東京オリンピックの代々木体育館を設計した丹下健三・坪井善勝のコンビとその仲間により実現したものだ。約300m×100mの大きさで6本の柱により地上約30mの高さに支えられた。施工は、大屋根部分を地上で先に組み立てた後にジャッキアップされた。
岡本太郎はこの大屋根計画を事前に知り、これをぶち抜くモニュメント「太陽の塔」を提案し、大屋根に大きな貫通部分をあけることを主張した。そういえば岡本は常々芸術は「爆発」であり、時には「べらぼう」なものでなければならないと主張していた。結局は岡本の主張が受け入れられて、太陽の塔の頭の部分をニョキッと突き出し、両腕が大屋根を支えるかたちとなることで落ち着いた。
大屋根はその後撤去されたので「爆発」して頭を突き出したが、現在は若干ひょうし抜けしている。両手と顔の間が間延びしているのもそのせいだ。ただしその大きさは「べらぼう」であることにはかわりない。その「べらぼう」さが現在も万博公園で異彩を放っており子供達の人気を得ている。
この大屋根は期限付きで安全審査が認可されたが、取り壊すのは惜しいとの声があがり期限延長も検討された。しかし、結局は予定通り取り壊された。認可も取り壊しもキーパーソンとなったのは鷲尾健三教授であり、当時、私は成り立ての助手であった。大屋根の一部だけは万博公園に残されている(写真-2)。
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[写真-3] ケネディ宇宙センターに横たわっていたサターンV型ロケット。右下は現在、我が家で堂々と横たわっている29年前のディートリッヒ?
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[写真-4] 当初に考えられていたスペースシャトルの1例
さらに、もう一つ特筆すべきはアメリカ館であった。空気膜構造であり内と外の僅かな空気圧の差で膜の屋根を支える。風で揺れないように餅焼き網のようにケーブルで抑える仕組みだ。(その技術は東京ドームでも生かされた。)解体の際、ついでに火災時の避難の実証実験が行われた。我々が中に入って、屋根に火をつけて避難する実験だ。膜が燃えて穴があきメラメラと拡がり空気が抜けて膜全体がゆっくりと下がりはじめる。我々は歩いてぞろぞろ脱出した。別にどうということもなかった。ただし全員の鼻の回りがススで狸のように黒くなっていたので互いに顔を見合わせて大笑い。コンクリートの大御所である坂静雄先生も同様だったので笑いをこらえるのに苦労した。
そのアメリカ館であるが、会期中にはアポロ-11により1969年に月から持ち帰った石が展示されて大人気であった。
写真-3はアポロ計画の第1段目に用いられたものと同じ型のサターンV型ロケット。
これだけ大掛かりな装置で地球を旅立ち、順々に身ぐるみを脱ぎながら月までたどりつき、やっとの思いで持ち帰ったものが一隗の石だった。
ふと、ハンフリー・ボガードの「マルタの鷹」1941のラストシーンを想い出した。
宝物と思っていた鷹の像がにせもので、それを持った警官が「重いな。これは何だ。」 ボギーが「夢のかたまりさ」で終わる。しかし、月の石はそんなものじゃない。
ケネディ大統領は1960年代の内に人類を月に送ると宣言し、アメリカはそれを成功させた。そして、世界中の人々がテレビ中継に酔った。月の石はその証であった。
因みに、写真-4 は1971に既に考えられていたスペースシャトルの概念図である[6]。当時は、1段目相当部分も再利用が考えられていた。
パンチカードを抱えてウロウロしていたが、すでに連中はCADやCAEの時代にはいっていた。ロケットの隔壁の共振状態が、一部の剛性を変更するとおさまる様子をオンラインで見せられ、羨ましく思った。
話が逸れたので戻すが、ディートリッヒが大阪万博で公演した時は既に69歳であった。外国のニュースはアメリカ偏重ぎみの日本では、年老いた、かつての女優の公演は興味がなかったのであろう。鈴木明の著書[1]では、
p.8
マルレーネ・ディートリッヒ来日に関する記事は、どの新聞にも1行もない。この日(九月八日)、何故か −少なくとも、僕にとっては「何故か」−ディートリッヒはこの万博会場にやってきたのである。そしてその歌(リリー・マルレーン)を歌った。僕は生まれてはじめて、そこで、この歌を聴いたのである。
p.10 - p.11
ショウは予定通りの時間にはじまった。ショウは僕の危惧を嘲笑うように満員の盛況だった。僕は横の扉のところに立って、息をひそめるように幕の上がるのを待った。音楽がはじまり、ディートリッヒは幕の下手(左方)から純白の衣装をまとって現われ、右手でさっとケープをまくり上げて、舞台の上でミエを切った。僕はその時、はじめて、おや、これは何かが違う、と思った。その時の実感を、僕はどうもうまく表現できない。堂々としたベテランの貫禄、などという陳腐な言葉には、無論あてはまらない。強いていえば、この世のものでない何か、とでもいうのだろうが、これもどうも、うまい表現とはいえない。一言にしていえば、これはまさにディートリッヒなのであった。老婦人でも、ベテランのタレントでもなく、まさに生きたディートリッヒのものに他ならないのであった。
以上、マルレーネ・ディートリッヒをテーマに、鈴木明氏の本を参考にさせていただきながら書いてみた。いやー、世の中にはすごい女性もいるもんだなーと、ただただ驚くばかりである。私の勤務先は万博会場に隣接していたが、そのショウは残念ながら見逃した。もっとも、私も、まだ若輩者で、せいぜいドリス・デイやコニー・フランシスどまりであった。彼女自身による著書[4]での書きっぷり、特に、かなり辛辣な切り口からみると当時の男性の多くは軽く手玉にとられた、との感もうける。もちろん、その実行力や舞台での演技力や「歌の語り方」はなみはずれたものがあるが。
それはさておき、「リリー・マルレーン」というドイツの歌のヨーロッパ戦線での拡がりは、若者が恋人を愛する気持ちを、国家の力やイデオロギーでは抑えることができないことを見事に証明した。「リリー・マルレーン」その歌は、悲しいかな、戦場で聴く歌であるような気がする。戦場のラジオにかじりついて、とぎれとぎれに聞こえてくる歌でなければ、それはもはや「リリー・マルレーン」とはまったくの別物でなかろうか。
- 参考資料
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- [1] 鈴木昭「リリー・マルレーンを聴いたことがありますか」文藝春秋、1988
- [2] Steven Bach, "Marlene Dietrich Life and Legend", Harper Collins Publishers, 1993
- [3] 同上 p.298 他
- [4] マレーネ・ディートリッヒ著、石井栄子、伊藤容子、中島弘子訳、「ディートリッヒ自伝」未来社、1990
- [5] 「わが青春の女優たち」文芸春秋社、1987、p.9
- [6] W.Lansing (Gruman Aerospace Corp),"The Role of of Design Analysis Systems for Aerospace Structures, and Future Trends", Proc. of the Air Force, Third Conference on Matrix Methods in Structural Mechanics, 1971, pp.1-45
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