ところで「固体」と「流体」とをまとめた「連続体」に相当する言葉にcontinuum がある。これをラテン語と見なして和訳すると「連続的な」となり、又、英訳すると「continuous」となる。つまり、いずれも主格ではなく、次の言葉への修飾語(属格)となる。Continuumが力学モデルとして確立されたのは(従って主格扱いとなって完全に独立したのは)かなり遅れて1914年のHellinger あたりからだろう[2]。その論文の後半では、LorentzやEinsteinやMinkowski の名前が盛んに引用されていることから、時空連続体(das Raum-Zeit-Kontinuum)[3] も念頭においた数学的色彩の濃い名前のようである。
(2010.10.13付けの本コラムでcontinuum をあえてラテン語とせず、continuous mediumの縮約語としたのは、continuumが主格として辞典にのっていなかったことにひっかかりがあったからによる。しかし縮約語としたのはいさみ足だったような気もする。)
時を戻そう。
学術書がラテン語で書かれることに対してデカルトは1637年に「方法序説」をフランス語で出版して反旗をあげた。 それには有名な次の言葉が含まれている。
Je pense, donc je suis.
「我思う、故に我あり」だ。ラテン語からすればフランス語は方言にすぎない。この言葉の意味を方言で言ってみよう。(眉につばをつけておいてください)
人の言うことや、見えていることは、ほんまかいなと疑っていくとすべて信用できんようになる。もしかしたら夢見てるだけかもしれん。そやけどな、今あれやこれや考えとる俺は、この世に確かにおる。うん、これだけは確かや。ここからはじめなあかんのとちゃう?
デカルトも居酒屋でくだまく大阪のオッチャンになってしまった。しかし野に詩人あり、居酒屋に哲学者ありだ。人は百数十億の脳細胞と1日24時間が平等に与えられている。それにより日々あれやこれや考えてしまう。ならば「よりよく」考えて人生を全うしたい。しかし、この「よりよく」がなかなか分からない。
その後にこの言葉は標準語?(ラテン語)に翻訳されて
cogito ergo sum.
となる。そしてなぜか哲学を学ぶ者は本来のフランス語ではなく、このラテン語のコギト・エルゴ・スム を引用する場合が多い。
でも私ならセーヌ川のボンヌフの橋で月を眺めながらJe pense, donc je suis. とキザにつぶやいてみたい。
最後に皆さんへの問題。ある人が法王庁から異端審査で邪教をとなえる者と判決が下されて有罪となった。不本意な告白書を読まされたあとにつぶやいたと言われる言葉をラテン語に訳してみました。意味を推測してみてください。ヒント:move に注目
terra adhuc movens.
- [1] 田中秀央「羅和辞典」研究社、第37刷、2003
- [2] E.Hellinger 'Die Allgemeinen Anzätze der Mechanik der Kontinua',Encyklopadie der Mathematischen Wissenschaften, Band 4, Teil 4, Teubner, 1914, pp.601-694
なお、同上のp.532 ではP.Stäckelが Die Durchführung der Mechanik der Kontinua muss fast ganz dem zweiten Teil dieses Bandes (Hydrodynamik, Elastiztätstheorie) sowie dem Band V (Mathematishe Physik) anheimfallen.
とあり、Kontinua は流体と弾性体を包含すべし
、とある。 - [3] A.Einstein,'Die Grundlage der allgemeinen Relativitätstheorie', Analen der Physik, Vierte Folge, Band 49, (1916), pp.769-822、時空連続体の言葉はp.773 に現れる。もっとも1905年に特殊相対性理論を発表しているのでHellingerはそれを見ているはず。私の手元にその論文はないので、それより後のこの一般相対性理論の論文をあげた。ただ、我々、熊さん八っつあんとしては、もし、光速cが一定でなく微妙な方向性が観測されはじめたらどうしてくれるんです? ねー大家さん。